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社会と人間  近代以前の東アジア秩序

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社会と人間  近代以前の東アジア秩序


 近代以前の東アジアの秩序体制を見ないと、近代において何が変わったのかが判らない。近代以前においては中国を中心とする冊封体制によって、「華夷秩序」が形成されていた。

 この柵封体制は、中国の各周辺国が冊封使を送り、中国という宗主国によって、その土地の「王」であるという事を認めてもらう体制であった。つまりこれは中国が宗主国であり、あとの周辺国は属国であるという秩序である。

 しかし日本は鎖国に入ってから、この古代から続く永きにわたる華夷秩序に組みしてなかった。その意識は明治維新を迎えてから、露骨に表明されている。その発端となったのは、明治新政府の発足を朝鮮に告げる報告のなかで現れている。
 この書面のなかで、日本は中国の皇帝以外に使えない「皇」の字を「天皇」の字に使い、日本が中国と対等の関係であることを強調した。朝鮮はこの書簡を受理すれば、日本が中国と対等であることを認め、自国が「その下」に位置することを認めることになるため、この書簡の受理を拒絶した。

 この華夷秩序を見直すきっかけとなったのが、日本による「台湾出兵」であった。この事件は「琉球民虐殺事件」に端を発する。1874年、宮古島の島民が難破して台湾に漂着した。しかしこの時、台湾の先住民族パイワン族は漂流民54人を殺害してしまう。
 このとき琉球王国は、事実上薩摩藩に支配されてるものの、中国に冊封使を送る中国の属国扱いという二重の支配を受けてる形であった。この琉球王国の二重支配を重く見た明治政府は、廃藩置県を機に琉球を完全に日本領にしようと画策する。

 そこで日本は清朝政府に副島(そえじま)種臣を送り、清朝に琉球民虐殺の責任をとらせようと交渉に入る。しかし清朝政府の回答は、「琉球は独立国家で中国に柵封する属国である。これに日本は口を出すべきではない。また台湾は中国にとって『化外の地』である。これのしたことについて、清朝はなんら関係ない」といったものだった。
 副島は琉球が日本の領土であることは認めさせられなかったが、台湾に出兵する口実はできたとして帰ってくる。しかしこの後、明治政府内で征韓論政変が起こり、副島は野に下る。そして変わって政府の中枢についた大久保利通は、それまでの副島外交の路線を一変させることになる。

 大久保外交は単純に言えば、ヨーロッパに倣った近代型国際秩序を、東アジアに樹立するというものであった。つまり日本を、中国と同格の「主権国家」として国際秩序に認めさせるという事である。そのためには旧来の冊封秩序が邪魔になると大久保は考え、その突き崩しに労力を費やした。
 大久保はこの清朝の回答を受けて、台湾に出兵することを決定する。そこで維新後初の海外出兵に日本軍は踏み込むが、このとき清朝は、それに対して反発の意を表明する。この清朝の反発に対して、日本は再び清朝と交渉に入る。

 この時、日本は琉球の所属が最大の課題だった。これに対して清朝は台湾の帰属問題が最大の課題だった。何度か交渉が乗り上げた末、結果的に互いの権益に即した形で、琉球は日本に属し、台湾が中国に属するにいたる。しかしこの段階では清朝はまだ、琉球を中国の冊封国と考えており、単に日本との「二重支配」を認めたにすぎない。
 この華夷秩序の否定に決定的に踏みこんだのは、清朝の皇帝・同治帝 が急逝し、光緒帝が即位したときのことである。この時琉球では、皇帝の即位に対して慣例になっていた属国からの祝辞の使節を送ろうとしたが、大久保はそれを止めさせる。

 そのことによって大久保は、琉球が日本の領土である「沖縄県」であることを、はっきりの対外的に打ち出したのであった。しかし琉球処分の件といい、台湾の領有権といい、現地人の意向は完全に無視されている。琉球や台湾というのは、歴史的に、常に大国である日本や中国の意向に晒されてきた土地だと言えるのである。 
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