前回の国学の展開の後に、天皇制についての質問を頂いた。正直、自分の中ではあまり徹底してない領域であるが、ふと学生時代に書いたレポートの事を思い出した。
それは聖徳太子について書いたレポートだったのだが、当時の僕の関心事もあって、憲法改正をめぐる日本文化の考察になっている。15年以上前に書いたもので稚拙な点もあるが、ちょっと面白かったので、当時のまま抜粋してみようと思う。
* * *
聖徳太子が日本の文化に与えた影響は、多大なものがあると考える。当り前に考えれば遣隋使の派遣による中国文化の流入ということである。しかし聖徳太子は仏教をそのままの形では輸入してないし、律令ということに関しても同じことが言える。
というのは当時の隋王朝が、あきらかに武力行進した結果の王朝であるという事実を聖徳太子は重要視していないからである。当時の大和王朝の内部は蘇我氏と天皇が実権に関して水面化での争いをしているとも言え、また沢山の豪族の野心がちらついていたときだった。
隋は南北に別れた(厳密には三つの勢力に分離していたが)中国の内乱的状況を統一する形で現れた王朝である。言わば多重化した勢力を制圧することで成り立った統一王朝だと言える。
しかし聖徳太子は蘇我勢力も反蘇我勢力も弾圧することなく国内を統一した。それが律令の力であったのである。聖徳太子より先の物部氏との戦いなどを見れば、そのあり方は武力行進的で非常に単純な構造とも言える。しかし聖徳太子は戦争を起こさないために律令を用いたのである。
当の中国において律令や帝がここまで力を発揮するとは思われない。何故なら帝や律令は武力制圧ののちに現れる処置であり、王朝ごとに変換される非絶対的な存在だからである。
日本の天皇や律令というのは、武力よりも遥かに絶対的な位置を占めており、いかな武力進行もこの正当性を背にしてなくては認められない。聖徳太子の輸入した律令は、そのような律令であったのであり、元の隋の律令とは質を異にしている。
よくも悪くもそういう「律」に対する認識は今の日本にも延長線が見出せる。憲法改定の問題がそれである。外国では(およそ日本以外の総べての国では)憲法はその時々の政府の作った一過性の存在でしかなく、決して絶対的なものとは見做されない。憲法改定に関しても、外国なら悪いと思ったならばすぐに改定する。
日本の場合、憲法は絶対的なものと見做され、滅多なことでは改定されない。この柔軟性のなさはどこからくるのか。例えば「憲法が悪い」と主張する旨を「正しい」と見做す基準はどこにあるのか。日本の場合だと、それはどこまでいっても憲法に基準が求められる。つまりその当時の人間からは間接的に存在する、すでに取り出された「律」のほうに
正しさがある。
正しさは常に律にあって個人にはない。これは日本の中では重要な黄金律であるように思う。当然、憲法改定の正しさを憲法の基準で計ろうとするなら、憲法は自己否定にならざるを得ないので憲法の否定を否定することになる。ここに絶対的な憲法像が成立する。
例えばそれは「神が七日間で世界を創造した」という命題を「聖書にそう書いてあるから」という証明をもって真とするような論理に似ている。それはキリスト教に限らず、仏教の論理体系にも当て填まることだが、自己の論理体系内の命題を、自己の論理体系で説明できるのは当然であり、それは全く外部の体系への妥当性をもっていない。
一番原初的な経験としては「お母さんがそう言ったから」にもっとも酷似していると言ってもいい。日本の学者は外国の学者をあがめがちだが、まさに「外国の偉い学者もそう言ってるから」である。こういう主体性のなさは、自身の外に律を持ち、判断を外部の体系に預けたまま正当性を確保しようとする、日本の判断のどんな部分にも当て填まる。
明らかに日本と外国との違いがあるとするなら日本が常に知らずにきたのは、その「正しさは変更可能であること」だろう。律令は政府によって変わるし、外国の学者の論理も批判されるのである。むしろ変更可能というよりは「正しさは作り出される」というふうに言い換えてもいいだろう。それは母親の間違いに気付かない子供のようなものである。
聖徳太子が日本に律令を輸入したとき、全く中国の文化に接してなかった国内の豪族たちは、その外部からやってきた「正しさ」に頭を下げるより他なかったのだろう。明らかに日本には律令は「外のもの」として輸入されたと言っていいだろう。
では律そのものを変えていく外国の、その「現在の律は間違いだ」の主張の正当性はどこで確かめられるのか。これが論理という黄金律なのだろうと思う。論理は法に先立ち、論理は政府に先立つ。それが少なくとも西洋社会の鉄則だったように思う。
そして中国では延々と続けられる「記録」が重要な位置を占めている。中国ではあらゆる覇権者の行為が記録され、記録は法に先立ち、記録は権力者に先立つ。どんな権力者も自身の行いを漏らさず記録される。それは悪行、善行の違いをとわずであり、記録されるということは後世の人間に己が行為を知られるということである。その記録された行為が「徳」に値するかの判断は人々に任せられ、どんな武力進行もそれが正当とみなされるかどうかは判らない。そして記録だけは権力者の手の出せないものとして君臨している。
それは西洋において論理が権力者の外に君臨していたのと同じだろうと思われる。諸外国は「正しさ」を自身で判断するものを宿しているのだ。それは質の違いなのであって、量の違いではない。例えば「アメリカでは……」とか「中国では……」という言明が、切り札のように使われるが、そんな言説をどれだけ重ねても「正しさ」への思考は得られない。重要なのは表面だけを量的に取ってくることではなくて、その質の違いを考え抜くことだろう。
聖徳太子本人は自ら正しさとは何かという問いをたて、仏教者になっている。そして解脱を目的とする仏教のあり方を敢えて取らずに現世の平穏を目指した。それが「判断」というものだろう。ただ聖徳太子の正しさを、ただただ外のものとしてうけとり崇めた豪族達は今も生きている。それは聖徳太子の英知を越えた、皮肉な結果とも言えるかもしれない。
* * *
以上が当時のレポートである。文章が生硬で若い! もっと語尾を整えるとか、文章のリズムが、とか色々文句とか恥ずかしい点もあるのだが、まあ若い時代の思い出としてまんまの抜粋にしてみた。
正直に言えば、現在でも考えてることはそれほど変わりはない。進歩がないということか、あるいは15年前と、日本が大して変わってないということか。
ただ今では日本にも、自分の力で考え抜こうとした多くの先人がいることを知っているので、ここまで乱暴に日本文化批判はしないだろう。ただ多くの事柄の考察の際に、何がしか海外や他の準拠点を求める傾向だけは相変わらずのようであると思う。
そしてその「外部」として機能する準拠点は、そのまま日本の天皇制の特徴にもなっているのだ。実権を握る勢力がどれだけ変わろうと、天皇はそれを背後から「基礎づける」役目を果たしてきた。それが連綿と続いた天皇家の機能的特質であると思う。
全然、余談だが、これは当時の友人のために書いたレポートだったような気がする。あまりおおっぴらには言えないが、卒業時に僕は卒論を三本書いた。二本は友人のもので、「聖徳太子」と「一向一揆」がテーマだった。
しかし二人の卒論は参考文献は改めて読まなきゃいけないし、その冊数もそれなりで、大変、労力と時間を費やした覚えがある。そこへ行くと自分の卒論は、大した資料も見ずに社会システム理論の概論の応用ケースをあっという間に書き上げた。
当時から思っていたが、理論的な問題はその抽象度は高くなるかもしれないが、一端学習してしまうと後はラクだ。対して歴史問題みたいなのは細かな事実を辿らないといけないので大変だ(とか思う)。僕はむしろ「理論肌」であって、「歴史型」ではないのだが、昨今必要にかられて勉強することになった。
正直に言えば、まだまだ不勉強な点が多いとつくづく感じる日々である。