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武術散策  マンガを巡る身体論

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武術散策  マンガを巡る身体論



 昨日の日記に学生の頃のレポートを載せてみたが、中々面白かったのでもう一本載せてみることにする。今度はマンガを題材にしたものだが、そもそも何の授業のどういうテーマのレポートだったかは、すっかり忘れてしまった。

    *     *    *

 スーパーマンの能力と、ドラゴンボールの孫悟空の能力は質的に同じものだと見做してよいものかどうか。そんなところに問いを立ててみることから、アメリカと日本における世界観の違いが浮かび上がるはずだと思う。
 スーパーマンも孫悟空も空を飛び、星を動かすほどの力の持ち主という点で、一見したところ違いがない。しかしその能力の根源を問うていくと明らかな差異が浮かび上がる。

 スーパーマンは他の惑星の出身者で、地球との平均能力の格差において能力を得ているのに対し、孫悟空は絶えざる自己の修行によって会得した能力なのである。孫悟空も確かに宇宙人なのだが、それはスーパーマンが宇宙人であることとは全く様相をことにする。
 重要なのはスーパーマンは母星では平均人の一人であるにもかかわらず、悟空は母星の基準で見ても桁外れの能力を有しているということである。それは根本的な部分で一つの世界観を提出していると言っていい。つまり「超越的個人を認めるか、否か」ということである。

 そこには「個人」という存在に対する根本的な認識の違いがあるが、それをとりあえず身体から考えてみることにする。アジアの身体観と西欧の身体観ではかなり様相が異なってくる。先にあげたスーパーマンと孫悟空なら、悟空がアジア的身体観を前提にした存在であることを考えるとよい。
 悟空の能力はその世界に置ける「突出」であるが、スーパーマンは「平均」なのである。スーパーマンはどれだけ優れていても、「超越的個人」などではないのだ。むしろその力は未開地に入り込んだ西洋人の持つ銃のそれと同質であると考えたほうがよい。

 このことは超越的能力がどのような形で認可されるかということを比べてみるとよい。西洋には「魔法」と言われる超能力の伝統がある。これは言わば世界を支配する「言語」(ロゴス)を理解することで、世界の力の方向性を自身の欲する場所に向けることのできる能力と言える。
 つまり「魔法使い」個人の能力は「力」を「操作」することにあり、その「力」そのものを内在的に持っているわけではない。これに対して例えば宮本武蔵のような達人は「気合い(睨んだ)だけで鳥を落とす」というような逸話がある。そこにあるのは個人が鍛練した「技」という内在的な力なのである。

 そこにはまた「身体」というものの認識の違いがある。西洋の力には「身体性」は皆無だがアジアの力は「身体性」に密接どころか、むしろそこから産出されるような形で存在する。西洋においてはギリシア哲学の伝統においても身体というものは「否定される」ための存在でしかなく、身体は「精神の牢獄」とされている。そこにあるのは「精神」というよりはむしろ「意識」の絶対性である。
 意識にとって身体は自らの限界でしかなく身体の限界は「超越的個人」の不在(例えば銃で撃たれれば誰でも死ぬと言った類で)という形に現れ、それはスーパーマンの限界でもある。可能性は精神にのみ存在し、意識をもってして把握した世界を自在に操作することに人間の可能性がある。これは魔法=科学の論理でもあると言える。つまり力は外在的だということだ。

 これに対してアジアには、「拳法」「合気道」と言った身体即可能性であるかのような力の世界観が存在する。そしてそれらは「肉体」と「精神」が分離されないようなところに真理が存在する。「技」というのは精神が研ぎ澄まされたところの肉体の鍛練として、超越的な力を発揮する。
 その精神性は善にしろ悪にしろ、ある徹底的な精神だけが「技」を身につけると言っていい。凡人が発揮する「力」は存在せず、力は常に「超越的個人」の元に内在的に存在するのだ。そこには物としての身体と、心としての精神に境界線はない。例えば日本刀における精神的なこだわりや座禅、茶などにも見られる一体性である。それは戦時中の「戦艦大和・武蔵」(超越的戦艦)の製造や、零式戦闘機のパイロットが一騎撃ちの美学にこだわったことからも見て取れる。

 ところで近年、原子力産業の影響からか科学批判論が高まってきている。少し前に放映されたNHK特番『アインシュタイン・ロマン』は、その現代の風潮を露骨に反映していた。アインシュタインの相対性理論が原子力発見のきっかけとなったことを挙げて、現代における科学のあり方を批判している。
 そして科学者アインシュタインの対立者として選ばれたのが、ファンタジー作家ミヒャエル・エンデである。そこにあるのは科学・ファンタジーの対立構図である。これは例えば最近のディズニー映画の盛り上がりなどにも反映されている構図だろう。

 しかし、そこにあるのは「科学的精神」と「想像的精神」の対立であり、依然として身体が出てくる余地はない。言ってみれば「精神」と「肉体」の対立構図からは脱出できておらず、未だに「個人」という「身体性」は重要なものとしては映っていない。
 以前までは科学を(インチキ科学ではあるが)力の根源としていた日本のマンガのヒーローは、最近になって肉体派となっている。例えば『北斗の拳』とか『キン肉マン』、最初にあげた『ドラゴンボール』などヒーローは肉体の無限の可能性に力の根源をもっている。

 そのような風土において科学批判をすることは、科学に対する根本的な感覚の欠落という点で有効さを持たないだろう。そして西洋でも精神絶対主義から離脱しないことには新しい視点を持ち得ないと云えるだろう。

     *     *     *

 なんだか終わり方が中途半端な妙なレポートだけど、恐らくこの最期の方が、与えられたテーマに関する部分だったのではないかと思われる。「科学批判について」とかだったのだろうか? いきなり『ドラゴンボール』と『スーパーマン』の話を聞かされた先生は、どういう印象を持ったろう?
 関連する話だが、アメリカ向けに『ウルトラマン』を作るとき、アメリカのスタッフが「何故、マントがないのに空を飛べるんだ?」と質問したという。あくまで力が外在的に存在するという意識の一つの現れである。もっとも最近見た『Mr.インクレディブル』では、「マントは危険!」とも言っていたが。

 まあ、そんな話はともかく、これは僕が武術を始める以前のレポートである。けれど出てくる話は宮本武蔵で、アジアの身体を代表するのが「合気道」に「拳法」なのが面白い。なんだ、この頃からやってみたかったんじゃん、とか思う。
 しかしこの基本的な身体観の違いは、東洋武術と西洋スポーツの根本的な違いを捉えてもいると思う。つまり西洋のスポーツは、「外在的に」身体を捉えたのだ。そこから「自分をマシーンと思う」と言ったようなトレーニング発想が出てくると思う。

 ただしこの当時もそうだが、それが全て無意味なこととは思わない。「外在的に」身体を捉えるような視線によってのみ近代医学のような治療法は存在し、その恩恵を世界中が受けたことは疑いようのない事実だと僕は思ってるからだ。
 またその「意識」を根源的に凝視するような視線から哲学が生まれている。西洋哲学には西洋哲学のよさ、その営為があり、それは東洋哲学では到達できなかった領域を持っている(無論、逆の事も言える)。

 しかしこうして見てみると、当時の僕は意外に「西洋/東洋(あるいは日本)」という問題を結構、重要な問題として考えていたことが伺える。当時の僕にとっては「西洋文明がロケットを月に送った」という事が、非常に重要な問題だったような記憶がある。
 またこの頃の科学批判、原子力産業の問題というのは、数年前に起きたチェルノブイリ原発事故を受けてのことだと思う。そのような科学、あるいは西洋文明へのアンビバレントな感情を持ちながら、それをどう捉えていくか、というのを課題にしていた覚えがある。

 若い頃のレポートは論理性よりインスピレーションを大事にしてるのが面白い。ちなみに今、こういう事を書けといわれると、結構難しいと思ってしまうのである。
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