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社会と人間  外圧について


 日本が植民地として占領されていたかもしれないというのは、さほど大袈裟な話ではない。実際、ペリーは浦和に来る前に琉球に到着し「琉米条約」を結んだ後、今度は小笠原島に上陸にして、ここの一部の「占領」を宣言している。ただしこれは、アメリカによっては否定されてはいるが。
 ちなみにペリーの行動は、イギリスの「タイムズ」などが逐一それを報道していた。この頃すでにヨーロッパでは新聞メディアが登場しており、東アジアの動向は世界中の注目を浴びていたのである。

 しかし実際には1860~70年代は、イギリスなどでも東アジアにかける軍事予算が抑制されるようになり、とうてい植民地化できるほどの軍備ではなかったという研究が近年になって出されている。それによればイギリス艦隊は、39隻もあった軍艦を20隻まで減らしたという。
 つまりイギリスの艦隊は居留地を守る程度には配備されていたが、植民地支配が出来るほどの軍事力ではなかった。これが何を意味するかといえば、列強がアジアにくる理由が必ずしも植民地型支配ではなかったということである。

 しかし実際の軍事力がなかったという列強側の事情をもってして、日本がその時「植民地化される危機はなかった」という訳にはいかない。日本では長州が四国の連合艦隊に攻撃されるなどの事件を通して、その海軍力の脅威を目の当たりにしていたからである。
 イギリスの駐日大使ウォルコックは『大君の都』で次のように書いている。

「我々の常に増大する欲求や生産能力に応じるために、我々は絶えず次々に新しい市場を探し求める。そしてこの市場は主として極東にあるように思われる。我々の第一歩は条約によって彼らの提供する市場に近づくことである。
 相手の方では交渉に入る意図をあまり持っていないのだから、我々は唯一の効果的な手段を携える。それは圧力である。そして必要な貿易の便宜や一切の権利を与えるという主旨の文書を得る。残るは僅かにあと一歩である。
 それは条約を実施し、実効ある条約にしなければならぬという事だ。背景に強圧という手段があってしかるべきだ。そして他の手段をもってしても条約の規定を忠実に履行させることができないのなら、強圧的な手段に訴える意志があり、そうすることもできるということも知らさなければならない」

 ここで注意すべきなのは、列強の目的が「市場の解放」という「自由貿易」だったこと。そしてそれを自分達に有利な条件で得るためには、やはり武力的な威嚇や抑圧をもってそれを成す用意があるということである。
 「植民地」は「自由貿易」のための一つの形であって、唯一の形ではない。しかし列強が望む自由貿易とは、例えば関税の決定権をその国に持たせず合議制にするといった形態であり、それを可能にしたのがいわゆる「不平等条約」である。それがウォルコックの書く「文書」である。

 このような不平等条約は武力的背景以外にも、列強が侵攻しているという事実それ事態をもってして交渉がなされた。日米修好通商条約を結んだハリスは、日本側と交渉する際に1840年から始まった中国の「アヘン戦争」の事を考えるべきだと日本側に示唆している。
 アメリカがこの国と条約を結ばないにしても、いずれ列強は艦隊を持ってこの国に押し寄せる。世界は既に「蒸気」によって変わった。幕府が政府としてのメンツを保ちたいなら、武力侵攻された後で不利な条約を結ぶのではなく、一隻の軍艦も携えてこなかった自分、つまりアメリカと条約を結ぶべきだ。

 ハリスの理屈は大体こういう主旨のものであったが、それはあながち嘘でもなかった。日米修好通商条約の一ヶ月前に、中国が結ばされた天津条約は、日本の条約と比べると幾つかの点でより不平等性が高いのである。この二つの条約は兄弟みたいなものだが、天津条約が敗北の上で結ばされたことが大きな差異をもたらしている。
 その差異はいくつかあるが、・国内にアヘンを持ち込まない ・国内で自由に商売を行わない ・キリスト教を布教しない などの条項が盛り込まれていることで判る。逆に言えば中国側は、これを全部飲まされたということである。

 日本が開港させられた大きな目的は、実は太平洋ルートの開拓それ自体にあるとされ、市場としては大して期待していないというウォルコックの記述もある。しかし太平洋ルートが日本の開国によって確立されたとき、世界は始めて直線ではなく、円として繋がったという。
 極東の小さな国を列強の人々が最大度の関心をもって注視していたとき、日本は身近に感じられる脅威に対して、いかに抵抗するかで必死であり手一杯であった。この視線の「視野」の違いを、無視するわけにはいかない。
 
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