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社会と人間  「国益」について 


 「戦争は政治的手段の一つである」と言ったとき、それは「戦争」が何らかの「権益」のために争われるものであることを内在している。何故ならその戦いが「真理」や「正義」のための戦いである場合、「政治的手段」は不徹底な妥協でしかないからだ。「利益」に焦点が定まったときに初めて、それを手段とみなすような観点が生まれる。

 その意味で「手段としての戦争」を考察したクラウゼビッツが、「国家対国家」の様相を帯びた時期に現れたことには非常に意味がある。その「国家対国家」の図式以前、つまりウェストファリア体制以前の戦争は、宗教戦争のように少なからず「真理や正義」のために戦うものであったからだ。
 実際にはそこに何らかの権益が存在するとしても、名目上は宗教上の「真理」をかけて戦争が行われたりしてたわけである。しかし「国家間体制」というものが出来上がり、教会などの宗教勢力が独自の「戦争をする権利」を失うと、背後にあった利害関係は前面に押し出されてくる。

 そこでは戦争は「真理や正義」のために争うというものから、「利害が衝突したのなら、戦争も仕方ない」という論理に変わるということになる。これが近代的な戦争の基本論理である。
 
 東南アジア地域にヨーロッパ諸国が築いた植民地は、もともとは海賊行為によって制圧された土地である。それを次第に国家が守護し、管理するにようなっていく。そこで行われる戦争は「現地民対支配国」の戦いではなく、「利害衝突する支配国同士」の戦いである。これが近代的な戦争の実際であった。
 
 ここで考えるべきなのは、その「利益」が誰にとっての利益か、ということである。それが「国益」という抽象的な概念になるのは、おそらく市民革命以降の話だろうと思われる。
 なぜならそれ以前の、国家主権を国王が握っているような体制では、得られる利益は基本的に領主のものである。利益を国民に再分配するという仕組みが出来上がって、初めて「国益」という概念は成立する。

 しかしそれが本当に「国民」の利益だったか? 議会制民主主義の体制をとったとはいえ、その多くの議員資格には元貴族であるというような階級的資格や、資産をどれだけ以上有しているというような経済的資格が存在した。
 つまり議会は基本的に上流階級や、海賊・貿易等で財を得た富裕層に占有されていたのである。「国益」はこれらの階層によって左右されることになる。

 しかしこの「国益」は国民に再分配されたわけでは必ずしもない。特に産業革命以降は、工場労働者や石炭採掘工が低賃金で重労働をさせられていた実態がある。これは社会問題として理論化され、見直しがされるまで改善されることはなかった。
 
 それに加えて、誰が戦争に行ったのかという問題がある。近代戦争では国家総動員体制がとられたわけだが、それを用意したのは実はナポレオンの戦争だった。ナポレオンの戦争は革命で得た「自由を守る戦争」ということで、多くの義勇軍が参加した。それは「諸国民の兵」と呼ばれたのである。
 それはまさしく「国民の兵隊」だったわけだが、ナポレオンの軍事的才能もあり、この「国民軍」は非常に強かった。この「国民を軍隊に導入する」というのが強力だということが判り、その後各国がこれに習うことになる。それが近代的軍隊のモデルとなったのである。

 そこで各国は「国益」のために「国民」を戦争に総動員するようになる。これが完全な形式となるのは第一次世界大戦のときだが、そのときに「国益」をめぐる階層構造が変化していただろうか。
 これは全くそうとは言えない。「国民」は単純に言って、一部支配層の利益に大きく寄与する「国益」のために、戦争に駆り出されることになる。では考えてみよう、この構造が現代で大きく変わったと言えるだろうか?

 戦争にもし駆り出される場合、我々は「真理や正義」のために戦うのでもなく、また誰のものか判らない「国益」のために戦う可能性があることを常に考えなければならない。それは近代から続く、社会構造上の流れのなかにある。
 「金」や「利権」が、己の命や家族との幸せと引き換えにできるほど大切なものか、よく考えてみる必要があるのだと僕は思っている。
 
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