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社会と人間  国学の系譜



 征韓論の起原をたどると、国学による自国礼賛主義のような思想に行きつくのだが、それはどのようなプロセスで発生したのだろうか。それは元々から、そういう意図を持った言説だったのかという疑問がわいてくる。しかしそれは何段階かのステップを経た後で起きた変化であって、決して単独の国学者の思想によって生じたものではない。

 初期国学者たちは、まず自らが歌人であると同時に「和歌」の研究から始めた。しかしこの「和歌」という分野は、歴史を連ねてきた宗匠家が実権を握っており、ある形の係り結びでないといけないだとか、どのような歌がよい、こういう言葉を使ってはいけないなどの決まりをその手に握っていた。
 この宗匠家の支配体制に対して、「そんな禁止には理由はない」と批判したのが初期の国学者たちの起こした行動だったのである。例えば初期国学者の契沖の師、下河辺長流は「万葉集」を引合に出して次のように言っている。

「和歌は我が国のすべての民の想いを述べる言葉であるから、上は皇居から、下は茅で葺いた粗末な小屋にいたるまで、人もところも区別なく、見るもの聞くものに寄せて、誰もがその志を述べるものである。そればかりか、春の鶯、秋の蝉をはじめ、生きとし生けるもので、その声にあやをなすものは、すべて歌を詠むのである」

 ここでは全ての人間はおろか、あらゆる生物の声が「歌」として捉えられる、「生命和歌論」とでもいうべき大きな思想が語られている。このような「生命の息吹」を直に歌うことが「和歌」であるなら、宗匠家の作った決まり事など足枷でしかない。
 このような発想である批判の典拠を、国学者たちは和歌のバイブルとも言える「古今和歌集」に求める。その序文には「生きとし生けるもの、いづれ歌をよまざりける」と紀貫之が書いた文章がある。それが論拠となるのだ。

 このような思考は勅撰和歌集の希望と、儒学的道徳観への批判へと展開していく。あらゆる生命の「情」を歌うのが和歌である場合、それが万葉集のような勅撰和歌集ならば、それは天皇の目にもとまる。全く下々の作った歌でも、それが「みかどの御目に入る」というこの可能性。これは後の天皇崇拝に結びついていく糸口となる。
 ここにおける「万葉の世界」とは、国学者の描く理想の世界であった。そこでは歌に託された想いだけが唯一の基準であり、そこでは身分秩序や貧富の差は問題にならない。天皇とは身分の最高位の存在なのではなく、むしろこの全ての「想い」を受け止める中立的な判定者なのだった。

 この「天皇」を「最高位(神)」である同時に、自分たちと変わらない一人の「ヒト」として見る視線は、その後の太平洋戦争まで継続している。当時の日本国民は天皇陛下を「神」であると見なしつつも、「陛下の御心を思うと…」という形で、心理を持つ一人の人間として、特別な感情の移入の対象としていた。
 この特殊な構造が、「天皇」を象徴的な「父」とする「家族的連携」で結成された、『大東亜共栄圏』または八紘一宇の理念と結びついていく。ここにはまた「幕府」に対して、「天皇」を持ち出すことになる幕末の理念の発祥源にも関係している。

 また一方で、宗匠家が代表する和歌界の秩序は、幕藩体制を形成する儒学的道徳観へと連結していった。その道徳秩序のようなものが、生命の息吹である「素直な情」を歌から殺しているという批判である。この宗匠家に対する批判が、後に幕藩体制それ自体への批判へと連動していくのである。

 この道徳秩序それ自体に対する批判の糸口をつけたのが、賀茂真淵である。真淵は和歌の心を「高く直き心」として定義し、それを「ますらおの手ぶり」と語ったのである。真淵は「いにしえの歌は、よろずの人の真心なり」と言った。
 この場合の真心とは、儒学に代表される「仁」とか「理」とかいう人々に共通とされる道徳性ではなく、他人のものではない「この私」の「心」である。それを「直き」に表現するには、「仁」「理」は障害物でしかない。

 しかし誰もが「この私」を主張したら、社会は身勝手な振る舞いで混乱に陥るのではないか。そのような反論に対して、真淵は「仁」「理」のもとになった中国の歴史を語って見せる。
 社会を納めるために「仁」や「理」のような道徳秩序が必要だというが、それで本当に社会が収まったことがあるのか。中国の歴史は常に乱れて、収まったことなど一度もないと語る。

 それは「仁」のレベルの道徳理念が、所詮、心の表層部にしかきかないものだからだと真淵は言う。真淵はこれを「うわべ聞きしようにて、心にはきかぬこと知るべし」と言った。
 そのような「うわべ」の道徳秩序を語る儒学的論理は、心の素直な表出、つまり「人性」に反していると真淵は語った。このような「道徳秩序の理念」は、やがて「漢意(からごころ)」と称されるようになり、国学のなかでは「漢意批判」が一大潮流となる。

 この「漢意批判」はとりもなおさず、日本における中国発祥の文化教養主義批判であった。それは次第に「漢意」に対する「倭意(やまとごころ)」を逆説的に浮かび上がらせることになる。その仕事を体系的に行ったのが、本居宣長であった。
 しかし排外的な思想の源流はすでにこの時点で現われていたと見るべきであって、国学は宣長だけが大成したものではない。最初はローカルな和歌界の宗匠家批判が、次第に儒学的道徳批判、そして幕藩体制批判へと展開し、やがて「攘夷」と名付けられる排外主義に結び付くのである。

 このような思想史的展開を見ていくことによって、どこから差別意識が現われ、変貌していったかを知る手がかりとなる。宣長以降の復古神道的展開は、さらに次回へと続く。
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