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武術散策  打撃の試合について

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武術散策  打撃の試合について



 『打撃の試合は不可能である』

 ちょっと煽りっぽい、こういうテーゼをまず最初に掲げてみようと思う。現に打撃の試合は存在するじゃないか、などと思うだろうか。確かにそれは存在する。しかしグローブをつける、後頭部を打たない、目や喉を突かない、金的を打たないなどの限定つきでだ。

 どうしてこういう事を考えるようになったかというと、最近読んだ『義珍の拳」と、映画『黒帯』で空手の試合を禁じていた描写が両方に現れたからだ。船越義珍は最後まで「試合」というものに反対していた。それは空手の「本質」を損なう、としていたのだ。
 それは一体、どんな「本質」だろうか。武術としての空手は、もちろん禁じ手の一切を使う前提である。しかしそれだけではない。それらの禁じ手を仮に使わないにしても、なお打撃の「試合」は難しいものがある。

 総合格闘技というものが登場してきて、人間が薄手のグローブだけで殴り合う姿を、僕らは比較的目にすることが多くなった。では目にすることが多くなったことで、僕らはそれを理解してるだろうか?
 山本KIDが、元レスリングの宮田選手とやった試合がある。試合開始4秒で、KIDの飛び膝蹴りが決まりKO決着となった有名な試合だ。KIDは試合後、「ヤベぇ…オレ、ちょーカッコイイ」とマイクで語った。

 負けた宮田選手はその後、どうなったろうか? その後、しばらくはワイヤーを顎で固定し、流動食しか食べられなかったそうである。これがもし医療技術の発達してない江戸時代だったりしたなら、どうなっていたのだろうか?
 恐らく試合そのもので死ぬことはなくても、宮田選手はその後、ものが食べられずに死んでいたのだ。打撃の試合をするというのは、そういうことなのである。だからこそ過去においては、「本気で打ち合う」試合などというものがなかったのである。

 別にこの危険性は飛び膝だけの話ではない。総合格闘技の試合を見れば判るように、大半の試合で「一発」、いいのが顔面に入ったら、その時点で試合はほぼ決まる。グラリとなったところに追い打ちをかけられて倒れ、あとはパウンドかサブミッションかで決まる。実際に勝敗を決定してるのは、寝技の攻防を除けば最初の一打なのである。

 それなりに鍛えた者の打撃ならば、顎もしくは人中、あるいは側頭部などの急所に入れば、その時点で勝負は決しているのだ。そこで倒れた人間を、上から殴れば意識がなくなる。そのまま殴り続ければ、脳挫傷で死ぬ。あるいは腹部を内臓破裂するまで蹴ってもいい。
 はっきり言えば、こんなことは過去、命のやりとりをする事が前提になってた時代には当たり前の話だったのであり、それをやってみるまで判らないというのは『愚か』なのだ。いかに僕らの時代が、暴力に対して無菌で無知かという証みたいなものである。

 実際、オリンピックのところでも書いたように、ボクシングというのは死者を結構出している。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=795530495&owner_id=16012523&org_id=796582499

 ボクシングが「「クインズベリー・ルール」という近代的なルールでイギリスで合法化されたのは19世紀に入ってからで、その公的承認はかなり遅い。それ以前にもボクシングは様々な形で存在していたものの、「騒乱罪」などの適用を受けて摘発されたりしている。
 しかしボクシング反対者の実際の立場は「社会を騒がせるから」ではなく、「死者が出るから」取り締まりたいというのが本音だった。例えばスパーリング中に相手が死んだ場合、それに殺人罪を適応できるかどうかなどの法律論議が盛んにかわされた。

 その社会の冷遇を取り除くために開発されたのがグローブである。グローブをつけ、ルールを守ってやったスパーリングや試合で発生した死者は、「殺人」ではなく「事故」で死んだという法律の形がそのことによって整えられたのである。
 逆を言えば、それだけボクシングという競技には死者がつきものだった。その理由は、前記したことに加え、ダウンの際の後頭部強打による脳挫傷も加えていいかもしれない(リングだって、安全のために整備されたものである)。

 本来なら、一撃で勝負は決まる。その「一撃」をやりとりするのが、空手本来の「掛け試し」であり、それは当然ながら寸止めであった。『寸止め』とは、十分に相手を殺せる力量を持った者同士が、そのやりとりの「上下」を磨くために行われたものである。そしてそのイメージは、木刀で行われた立会のイメージに限りなく近い。
 過去においては立会は木刀でなされた。無論、真剣ではないのでその殺傷力は低下する。しかしその一撃をモロに側頭部や頸椎などに食らえば、それは死にまでつながる負傷となるかもしれない。

 ここでその立会において「上手」ならば、その一撃を「寸止め」することができる。また「寸止め」された方も、相手の太刀が一瞬でも早く入ったことが判る。また、それが判るもの同士でなければ、このような立会はできない。

 有名な柳生十兵衛の話がある。十兵衛がある者と木剣で立ち合った。その時、斬り結んだ相手が「引き分けでござるな」というと、十兵衛は「いや、ぬしの負けだ」という。そうすると相手は、「何を言うか、ならば真剣で勝負せよ」と言い出した。
 十兵衛は「いや、勝負は見えておる、やめられよ」というが相手は聞き入れない。「この勝負が判らないようでは、どうしようもない」と言って、十兵衛は相手と真剣で立ち合った。そして斬り結んだ瞬間、相手はバッサリと斬られて倒れたのである。

 「上手」同士の立会で、初めて「寸止め」の試合が意味を持つのだ。これは空手においても同じことであり、十分にその体捌きの理合を学んだ者同士がやって、初めて成立するのが「寸止め」の試合なのである。
 これを顔面や急所を避けて打ち合う「競技」と捉えては、その本質ははるかに遠ざかる。また逆に、相手にパチンと実効性のない打撃を入れて、そのポイントを競いあう競技と捉えるのも同様である。そこには「一撃」で相手を死にやることができるという想像力が欠けている。またその想像力のなさを棚上げして実際に相手を殴る競技は、想像力の欠落を超えて愚かしいと言わざるを得ない。

 本来、空手は、打撃だけで成立していたのではない。琉球相撲という組技も並行してやっているし、また船を漕ぐ、網を引く、畑を耕す等の労働で、その体幹部の力は十分に備わっているのだ。その頑強な身体を「型」で練り上げる。
 その「型」によって練られた理合と、威力が備わって、初めて「寸止め」の掛け試しが成立する。相手を実際に昏倒するまで打たなければ判らないようなものは、武術とは言えない。それは武術の精神に反するからだ。

 と、いうような訳で、「打撃の試合は不可能である」という事なのである。真に武術的なやりとりは、「寸止め」であるとも付記しておきたい。 
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