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武術散策  空手について  その三

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武術散策  空手について  その三



 後に「ケンカ空手」などと称されるようになる極真空手創始者・大山倍達は、那覇手、首里手をともに習得した空手家である。那覇手は剛柔流を、そして首里手は船越義珍に師事したというから、その出自は非常に伝統に直結したものである。
 それがあってだろう、極真の型には三戦、転掌といった那覇手の型もあれば、平安のような首里手の型もある。ただし大山総裁本人がどこまで型を重視したかは判らないし、どこまで内部でそれを練習してるかは定かではない。

 さて牛を素手で殺したとか、十円玉を片手の指で曲げたなどの誰でも知ってる逸話は置いておこう。大山総裁の食事など紹介してみる。大山総裁は毎朝、一杯の酢を飲み干すことから始まる。酢は市販のもので別に選ばない。水を9、酢を1で割る。水は前の日に沸かしたものを湯冷ましにして冷蔵庫にいれておく。
 一日の食事配分は朝5:昼2:夜3だそうである。つまり朝が一番食べる。ただし朝一番食べるのは、サラダである。しかもサラダは特製の、7種混合サラダである。レタスを中心に、グリーンピース、ブロッコリー、セロリ、キュウリ、カブ、赤カブ、ニンジン、トマト、タマネギ、ホーレン草、セリ、大好物の大根や、リンゴなどを、最低でも7種類は入れるのだそうだ。

 極真空手から分派したといえば、まず「ケンカ十段」の異名をとった芦原英幸が筆頭だろう。極真の四国支部を立ち上げたあと、芦原会館を設立する。芦原英幸といえば、上野から(だったかな?)ケンカを売って歩いたとか、松山に越したあとにヤクザに喧嘩を売って回っていたらヤクザがいなくなったとかのエピソードが有名である。
 しかし芦原空手の技術体系は精緻かつ、流麗な円形運動にあり、実に実戦的である。「捌き」と呼ばれるその技術の基本は、交差取りに相手の袖や腕を取って崩したあと、無防備になった相手の後頭部や顎を打つという極めて実際的なものである。場合によっては後ろ髪を掴んで引き崩すような技法も、そこには含まれている。

 この芦原英幸について極真を離脱し、さらには自ら円心会館を作ったのが二宮城光である。第十回の全日本極真大会でチャンピオンにまでなったニ宮城光は、その甘いマスクで「空手の貴公子」と呼ばれた。
 円心会館の主宰する大会は「サバキチャレンジ」として、世界に隆盛を誇っている。部分的に着衣を掴むことが許されてるこのルールも、基本は芦原の開発した「捌き」が元になっている。

 また芦原門下からもっとも興行的に有名になったのが、K-1を主催する正道会館である。ちなみに佐竹雅昭、角田信朗などは、他流派の試合で出て勝利し、正道会館が「常勝軍団」と呼ばれた時期もあった。

 さて極真は大山総裁が亡くなってから大山総裁が指名したといわれる松井章圭を代表にした松井派と、大山智弥子を館長とする大山派に分派する。松井派のほうには有名な百人組手達成者の八巻建志や、フランシスコ・フィリォ、数見肇などがいる。
 大山派はさらに分裂して新極真会と全日本極真連合会に分かれる。新極真会は80~82年連続覇者の三瓶啓二が主体となって分裂したが、00年に緑健児が代表理事に就任、03年に「新極真会」を名乗るようになった。

 ちなみにニ宮城光が優勝した78年は、決勝を三瓶啓ニと争っている。巨漢の三瓶に対して、ニ宮の華麗な捌きが光った。その翌年は三瓶啓ニは、今度は中村誠に優勝を奪われる。この中村誠も巨漢であり、その翌年から二年連続で、決勝を二人が争い、三瓶が勝利している。
 現新極真会理事の緑健児は、165cm、70kgの体格で91年の世界大会覇者となり、「小さな巨人」と呼ばれた。歌手の長渕剛が所属するのも、この新極真会である。

 ニ宮城光と三瓶啓ニが決勝を争う前年の77年、全日本で優勝したのが東孝である。東孝は極真を離脱して、大道塾を創立した。東は元々が柔道家だったが空手に転向した経緯をもっている。
 それを反映してか、大道塾では掴みや投げもありとされていて、さらに締めも最近では取り入れられた。確かに組み技で体を作り、その上で打撃を使うのは有効だと思われる。大道塾では「空手」という打撃主体の技を離れ、現在は「空道」を名乗っている。

 この大道塾からUFCの第二回大会に出たのが市原海樹である。90、93と大道塾で無差別王者となった市原だったが、ホイス・グレーシーに打撃を当てることなく寝技に持ち込まれて敗戦した。
 また現在、K-1王者のセーム・シュルトは、大道塾主催の北斗旗大会で優勝して格闘技会に登場した。その後、パンクラスにも出て王者になり、PRIDEを経て現在にいたる。

 この大道塾の北斗旗を86年に制したのが西良典である。柔道を木村政彦に師事し、大道塾で打撃を磨いた。この西が87年に立ち上げたのが和術慧舟會である。和術慧舟會はかなり早くから総合格闘技に取り組んでいた団体の一つであった。西良典はバーリトゥード・ジャパン・94でヒクソン・グレーシーと対戦して敗北している。
 この和術慧舟會からは修斗の多くの選手を輩出し、なかでも宇野薫は日本人総合格闘家のUFC進出の先鞭をつけた。また、プロレスラー村上和成は、元慧舟會のエースであった。慧舟會主催のジャケットマッチである、第二回トーナメント・オブ・Jに出て、サンボをやったというフレコミの郷野聡寛に負けたりしていたのである。

 最近では極新会館松井派から、かつてニ宮城光、佐藤勝昭らを倒して全日本をとった盧山初雄最高顧問・首席師範が02年に離脱した。これはかなりの事件であった。また数見肇、岩崎達也といった有名選手がこれに続いた。
 
 盧山初雄は極真だけではなく、日本で意拳を「太気至誠拳法」として広めた澤井健一に師事するだけでなく、伝説の空手家・中村日出夫にも師事した経緯を持つ。盧山初雄と城南川崎支部長だった廣重毅師範などは、極真のなかでも立禅を取り入れた練習を取り入れ、数見肇などの強い選手を育てた名師範であった。
 その盧山初雄と廣重毅がともに離脱し、03年に設立したのが極真館である。極真館の「真剣ルール」の試合では、顔面への攻撃が認められるフルコンタクトを導入している。しかし基本は、入れたら「一本」として認める形をとっており、総合格闘技に比べれば安全面への配慮、武道精神の重視が認められる。

 その意拳的空手スタイルで、全日本を5度優勝し、百人組手を成し遂げた数見肇も、廣重毅とともに極新会館を離脱した。しかし数見肇と岩崎達也の両名は、その後、心道流の宇城憲治に雑誌の企画で会い、その技に心酔する。
 まもなく二人は、心道流に入門する。現在は心道流の古流空手や意拳を取り入れた独自の武術、ライコンドーを主催してるという。

 大山総裁のまいた種は他にも沢山あるが、主だったところだけを取り上げてみた。
 
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