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武術散策  『義珍の拳』を読む

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武術散策  『義珍の拳』を読む


 非常に遅ればせながら、今野敏先生の『義珍の拳』を読んだ。今野先生は常心門空手を学んだ後、古流空手や棒術を学んで自分で「今野塾」という道場まで開かれている人である。幾つかその武術系の作品を読んでいるが、拳法にも深い造詣があり、実に面白い。

 『義珍の拳』は、沖縄から日本本土に琉球空手を伝えた富名腰義珍(ふなこしぎちん)の生涯をつづった物語である。身体が弱く病弱だった義珍は「身体を丈夫にしたい」という理由から、『唐手』の師匠・安里安恒(あさとあんこう)について「手(デイ)」を学ぶ。

 今では空手の練習と言えば、突き蹴り、組み手という感じだろうが、ここで義珍は安恒から「ナイファンチ」という型だけを三年も教わり続ける。ナイファンチとは、首里手の基本型だ。あけてもくれても、それを三年である。
 この基本型を三年という記述にまず驚かされる。しかしそれをやって初めて、足腰、身体の使い方が身につくという記述に説得性がある。僕もナイファンチとサンチンだけで多分二年くらいやっていたし(独り稽古だったため)、八極は最近まで小架式だけだった。

 この小説には現在の普及型である「平安(ピンアン)」の型を作った糸洲安恒(いとすあんこう)も出てくる。義珍は糸洲とともに平安の普及に努めるが、それをある日、本部朝基(もとぶちょうき)から批判される。
 本部朝基は琉球王家の本部家の三男だが、やたらと「掛け試し」をする乱暴者として知れ渡っていた。この事実に基づいた本部朝基の人柄の描き方も大変面白い。本部朝基は「ナイファンチを三年」というような本来の鍛練法を取らず、深く腰を落として体育的な鍛練内容を取り入れたそのやり方は「本来の唐手ではない」と批判するのである。

 興味深いのはここで、小説の流れとしては「義珍も糸洲も、それが空手の本来とは違うと知りながら、それを普及型とした」という論理に従っているという事である。さらにその上で、平安を「古流のように」糸洲がやってみせる場面がある。大変興味深い。

「終始、両足の幅は狭い。そして動きは柔らかく滑らかだった。 
 集団指導用のピンアンの型は、受けも突きも蹴りも、力強く、一つずつしっかりと行う。今、糸洲がやっている型は、流れるようだ。まるで踊りを見ているようだった。
 だが、要所要所で力強い決めがある。それは、間違いなく古来の型を思わせた」

 簡単に言えば今野先生は、現在の空手が大きく古流から外れたものであると認識している。古流の空手は足幅を広くとったりせず、力で打ったりはしない。流れるような動きを攻防一体の形で行う。そして何よりそれは「護身のため」のものであり、「戦うため」のものではないという深い認識が小説全体を貫いている。
 しかし糸洲の平安の型の披露に見られるように、普及型として広まった「平安」にも、そこに込められた古流の「本来の形」が見出せると、同時に書いてもいるのだ。つまり「見つけようとする者には、ヒントは身近に隠されている」とも書いてるわけである。

 物語には、本土で「力強く、戦うためのもの」として変わっていく空手を見て、義珍が心を痛め、苦悩する様子が克明に描かれている。その義珍の「琉球のものを、本土の人間に認めさせた」という誇りに近い複雑な感情もそこには入り混じっている。ここにはもう一つの琉球史がある。
 義珍の演武を見て、本土に空手を広めることになった立役者として、ここには嘉納治五郎も出てくる。この『義珍の拳』を含む三部作の、『山嵐』『惣角流浪』のすべてに嘉納治五郎が登場するが、ぼくはこの「今野・治五郎」の人物がとても好きだ。

 ここに出てくる嘉納治五郎は、理想に燃え、理論的に物事を考え、他人など事情などお構いなしに自分の理想をぶつけ、その推進力で周囲を大きな渦に巻き込んでいく大変な人物だ。この治五郎がどこか子供っぽい情熱で、人を巻き込んでいくのが面白い。
 この治五郎の「柔道の一部門として空手を加えたい」という申し出に、義珍は「空手は空手として、独立したもの」として、その申し出を断る。そこには空手は琉球のものであり、その自立性を失いたくないという思いがあったことが描かれている。
 
 義珍が最後までこだわった一点として、「試合はさせない」と描写していたのが興味深い。「空手は勝ち負けを競うものではない」と、義珍は考えていた。しかしその義珍の意向とは裏腹に、本土の空手は試合化の流れをたどっていく。義珍はその流れを作ったのが他ならぬ自分であり、また自分の息子であるという複雑な感情を抱きながら生涯を送った。その現実味のある筆致に、ただただ感心するばかりである。
 
 この小説には「武術とは何か」という非常に本質的な問題が、そこに主題として織り込まれている。武術家を主役にしているにも関わらず、今野作品の他の作品と比べても、格闘シーンが少ない。
 最も思い入れのある空手だからこそ、このような静謐で本質的な小説が出来上がったのだろう。全ての空手家はもちろんのこと、武術を志す人に一読してほしい一冊である。 
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