2年間同じところで働き続けている。今日までなんとかやって来れたのは、フォローしてくれる人がちゃんといるからだろう。
今まで、なぜ、辞めてしまったのか?と問われると、煮詰まるまでやってたから。
こんなんじゃダメだ。覚えなきゃ、考えなきゃ、動かなきゃって感じだった。
その奥底にある思いは、必死だった。
誰かの目に映る自分が、ちゃんとしていると思ってもらえるようにやらなきゃって思ってた。
体は疲弊し、心もどんどん動かなくなっていった。
最終的に、ケガして、血が出て、動けなくなって、気持ちも枯れて、でも、最後までやり切るって決めたから、自分のことは自分でやった。
それで、見えてきたことって言うのは、エネルギーっていうものがどういうものか理解できるようになってきた。
エネルギーって目に見えないものだから、伝わらない。
自分の体の痛みが誰かに伝わらないように、誰かの痛みなんて自分にとっては全く関係のないものだって思う。
でも、実際、自分の中に熱を帯びたものを何時間も抱え込んでいたら、気絶するだろう。
風邪をひいたときのように怠さやしんどさ、苦しさが増す。
当たり前だよな。
それくらいのものを抱え込んでいるんだから。
そういうものをずっと自分の中に飼っていると、ありえないことができるようになる。
だって、死んでも良いくらいの辛さが現実にあるんだから、それ以上のことは起こり得ない。
一回、そういうところまでいくと、容量が増えて、絶対できないと思い込んでいたそれが、できるようになる。
それが昇華だろう。
結果を出すってどういうことかって言ったら、自分の中に蓄えたエネルギーを出す作業だと思う。
だから、日常的に、厳しい練習をしている人と、たまにだけど、厳しい練習をする人、どっちが結果を出す?って聞かれたら、明らかに、毎日、一生懸命やっている人に決まっているんだよ。
でも、もちろん、生身の人間だから、我慢しすぎて、動かなくなるようになるときはある。
もうその時は、泣いても、喚いても、叫んでも、無理だから、無理しないようにするしかないんだ。
手が痺れたり、手首が動かなくなったり、色々あるけど。
毎日積み重ねた同じ時間が自分を育てる。
やらなきゃ得られないものがあるように、やったからこそ得られるものがある。
だから、一人一人それが違ってそれで良いんだと思う。
何かに特化している人やまんべんなく平均的にできる人、同じエネルギーを持っていたとしても、その使い方によって違う。
だから、人によって時期がある。
悲しくなったり、怒りっぽくなったり、不機嫌になったり、面白くなったり、楽しくなったり。
違って良いんだよな。
そういう風に、様々な喜怒哀楽を経験した後、ようやく見えてくるものがある。
最近、考えることがある。
死にたくなるほど辛いような時間の時もあれば、幸福すぎて死にたくなったむごい時間を忘れる時だってある。
テレビのチャンネルと同じ。
一方ではニュースを、一方ではドラマを、一方ではアニメを。
そんな風に、同じ画面でも映し出すものが違うように、人によって、その経験値は違う。
だから、誰と比べてもしょうがないってことに気付く。
自分がどうあるべきか。どうありたいか。その心ひとつで同じ世界でも、見えてくる世界は違う。
だから、結局は、誰かに何かを言われてへこんでいたとしても、それはドラマのワンシーンであることに、気付く。
俯瞰して観るってこういうこと。
ただその時間がそこにあるだけ。
本当はどんどん変化していって、同じである自分なんかいない。
ただ能力の同じ昨日の自分がいるだけ。何かができなくなったら、同じ自分でなくなってきているだけなんだろう。
仕事を変えて、見えてくるものは、すべての時間、誰かがそこで何かをしているってこと。
1年中働いてみて、自分の世界を広げてみると見えてくる。
あの時、あの場所で、また次の誰かがそこで、何かをしているってことがどんどん分かってくる。
見えない場所が見える。感じれなかったものが感じられる。
知らなかったことが見えない場所から見える場所に行くことができる。
たまに本気で思うんだ。
朝起きて、誰かがまた何かをやってくれている。
前へ前へとどんどん動かして進んで行く。
それぞれがそれぞれの場所で、それぞれの役割を担って。
能力も経験値も歳も性別も何もかも違う誰かと誰かが、何かをしようとしている。
考え方も、やってきたことも、やってもらってきたことも違う相手同士が。
仲良くできるって本当にすごいこと。フォローしあえるって本当にありがたいこと。
もうすぐ夏が来る。
自分が自分として機能できるように、少しは、前進していこうと思う。