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場所に呼ばれる

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場所に呼ばれる

古典を勉強すると、自分の中の引き出しがどんどん増えて、まるで、年寄りのように、誰かに対する思いが強くなっていく。

自分がそうであるように、誰かに対してもそう言わざるを得なくなってくる。


先を行っているのかどうかなんて分からないけど、確かな思いが心臓の鼓動とともに、全身を駆け巡る。


ある人が言った。


歌手や音楽家はみんな、スピリチュアリストだって。

あの世からのメッセージの代弁者だと。


ああ、そうか。だから、音楽が流行るのかって思う。教えがない今、何を教えとして生きていけば分からないからこそ、その声に耳を傾けられる人が、その時代の代弁者になるんだろう。



そういう風に、何気ない日常を送っていると、ある事に気が付く。



幽霊やお化けって実際、いるかどうかも分からないものだけど、確かに感じるときがある。



思うことイコールそこに何かがいるってことなんだろう。


ということは、必然なんだよな。その言葉も思いも。



この前、新しい場所に行った。そしたら、気持ち悪い感じがして、言ったんだ。「幽霊って見たことある?」って。


帰り道、ふと、道の脇を見たら、やっぱり、花が飾られていた。誰かが死んだんだろう。なぜだか分からんが。



そして、また思い出す。



自転車で長距離をこいでいると、気になるポイントがあって、見るべくして見てしまうんだよな。そしたら、よく花が飾られていたり、事件の現場になっていたであろう黄色いテープが貼られている場所がある。


気付きたくないのに、気付いてしまう。



気持ち悪い。




でも、そういう風に、何かに気付ける感性があるってことは、それだけ自分の中の器もそれなりにあるってことだろう。



そして、たまになんだけど、本当に、たまに、仕事帰りに寺に行ったり、神社に行ったり、川に行ったりする。



山の上の寺だから、なかなか人が来ない場所に呼ばれて行くんだけど、自転車を押しながら登る。たまに、なんでこんなことをしているんだろうって思うけど、結局、高台を登り切ったあと、世界を俯瞰する。


自分のいている場所はだいたいあそこらへん、そして、ここで働いていたりしたんだなって見渡す。


一歩一歩登って行ったことなんか、最終的に忘れる。


自分の足跡なんかどうでも良い。ただ、もっと高いところから世界を見たいって気持ちになって、それもなぜか、自分の足じゃなきゃ嫌って思っている自分がいる。



行者さんに憧れを持っているんだろう。
最近は飛脚が好きだなって思う。


武士も自分の中に暑い思いがある人なら好きだ。


士農工商だった時代があるんだな。



なんか、私の職業って、この四つに集約されているみたい。

先生、畑作業、工場、レジ


現代に通ずるものがある。


そして、また、おそらく、同じようなサイクルを繰り返して行くんじゃないだろうかと思う瞬間が出てくる。


武士、百姓、職人、商人



身分の違う人たちを軽くやらせてもらったけど、結局、最後、何に落ち着くのかって言ったら、その枠組みを超えた僧侶なんだろう。



尼さんや僧侶、神主はまた別枠として存在する。



どの身分の人も関係ない。


みんなが必要とする人たちであり、人の中心にいる人たちなんだろう。


っで、ハッと気づかされたんだが、無性に、川に行きたくなるときがある。


魚が見たい。冷たい水に触れたい。その滝を眺めたいって思う心が燃え上がったとき、自転車で、尼ん滝っていう誰も来ないような場所に行き、その川の流れを見たり、光を感じたり、木々が生い茂るのを楽しむ瞬間がある。


行く途中、こわいって思う場所もある。誰も来ないし、音も大してない。ただ木や花が生い茂っているだけ、ちょっとだけじめっとしている場所があるけど、それを越えればどうってことはない。


昔、本当に昔、悲しいことが各地にあって、人が飢饉や病で死に、必死で育てたとしても、生き残る可能性が少なかった過去、女たちはわが子の供養をするために寺に入った。


成仏するように願い、そして、また、次の世代の女たちがお寺でこんな悲しいことがないように祈る。


孤児がいたり、旦那さんを戦で死なせることもあっただろう。



滝に入り、尼さんたちが修行した滝に導かれて、その後、禅語を学ぶようになったのは、もはや必然なのであろう。

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