それが働くってことだと思う。
ここ最近、色々なことが積み重なって、仕事を辞めたい理由がどんどん出てきた。
その理由は、自分を大安売りしてきて、さらに、安くなってくれって人から言われて、それがかなり気に食わなかった。
本当はしんどいのを我慢して、人に優しくして、自分はこれだけのことができる。だから、買ってくださいって自分を商品みたいにして、買ってもらって、何とか一ヵ月をやり過ごす。
本当になんとか、明日を繋ぐために必死で、命がけで、バカみたいに素直で一生懸命で誠実だった頃があったのに、時間が経てば経つほど、その腕が上がっていき、もっと高く買ってほしいっていう欲が出てきた。
もし、自分より一生懸命仕事をしている人がそう言うんなら、手を貸そうって思える。
でも、自分より苦しんでいない人からもっと頑張れよとか言われても、なんだよって思う。
一生懸命やって、死にもの狂いでやって、涙をこらえながら必死でやっている人の味方でいたいけど、自分はここまで、自分はこれしかできない、だから、他のことは頑張らないって言われても、そんな人の言うことを聞きたくないって思う自分がいる。
言われている内容が同じでも、誰に言われているのかが違えば、やはり、自分の取る行動だって変わってくる。
嫌っていうほど、体験したんだよな。
だって、もし、自分が後輩なら、やっぱり、不器用でも必死で頑張っている人の背中を追いかけたいって思うから。
なんでも、器用にやっている人って信用できない。効率重視、結果重視、マジでそれで、大切なこと忘れてないか?誰かの気持ち、忘れてないか?って思うから。
だから、たぶん、私は、父や母の苦労を見ているから、兄のように、結果を出さない人間はクズだっていう発想が嫌い。
実際問題、結果を出している人の方が、前進しながらちゃんと人生を築き上げていると思うけど、本当にそうか?って思う。
本当に大切なこと忘れてないか?
本当に分かってあげられているのか?
知っているのか?その痛みって思う。だから、もし足りないのなら、2倍あれば良いって思って、あえて、苦しい選択を選んだら、やっぱり、体や心にガタが来るもので、痛みが全身に伝わって、死にそうになる。
でも、そういうことを誰かに言っても、その痛みは伝わらない。ただかわいそうだねとか、ただしんどかったねって言われることやすごいね、頑張ったねって言われたとしても、やっぱり、違うんだよなって思う。
人の痛みは人のもの、自分の痛みは自分のもの、それぞれ違うから、分かち合えるものなんかない。でも、どうか、同じでありたいって気持ちがどっかにあって、そうあってほしいと願う心がどっかにある。
自分よりよくできた人を見て、興奮するのは、その人と自分を重ねているからだろう。
その時の思い、その時の感じ、それっきりだけのものだけど、ちゃんと同調する力はみんな持ってる。
それを昔の人は以心伝心と言ったんじゃないか?
集団の中にいると、自分が何をすれば良いのか分からないけど、その中にいて、誰に認められているのか。その人を知るには、それで十分なんだと思う。
私は私自身、無鉄砲でどうしようもないけど、でも、ちゃんと分かってあげられるようになりたいから、せめて、どうか、もう少し、優しくありたいと思う。
だって、嫌じゃないか。色んなものを背負っている人のことを分かってあげられないなんて。
それがちょっとでも分かるようになったら、情緒の芽は育っていると思う。