忍者ブログ

成婚率が重要!結婚相談所選び

作品を読む  ドスエフスキーの倫理的課題


 学生の頃のレポート第三弾。今度はドスエフスキーに関するものである。

     *     *     *

 合理的エゴイズムと倫理的信仰と言えばドストエフスキーという作家が思い出される。『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンとアリョーシャという存在は、その精神性においてまさに合理的精神と倫理的精神の象徴だとも言えるだろう。加えて言えば長兄のドミートリイは実践と精神の矛盾を、父のフョードルは「蕩尽」の精神、そして私生児のスメルジャーコフが「陰蔽」性を表したのではないかと解釈ができる。
 ここでの題目は合理的エゴイズムと倫理の葛藤なので、まずイワンとアリョーシャから考えてみたいと思う。

 合理性の申し子イワンはこの現代を予感させるような考えの持ち主として現れる。つまり「この地上には人間にその同類への愛を強いるようなものなど何ひとつないし、人間が人類を愛さねばならぬという自然の法則など全く存在しない--中略--たとえば現在の我々のように、神も不死も信じない個々の人間にとって、自然の道徳律はただちに従来の宗教的なものと正反対に変わるべきであり、悪行にも等しいエゴイズムでさえ人間に許されるべきである--」と。
 現代において合理性というのは常に功利性であるわけだが、イワンの言葉にはある種のニヒリスティックなニュアンスが漂う。それは「神は死んだ」というニーチェの表情を持ったものの持つ独特のニュアンスかも知れぬが、その言葉をただ否定してみてもその課題が解決しないことはいうまでもない。

 イワンはエゴイストであったかもしれぬが果たして「反倫理的存在」だったのか、ということになると疑問の余地が生まれてくる。父のフョードルが息子であるイワンとアリョーシャに交互に質問するシーンがある。興味深いと思われるので抜粋してみよう。

 -フョードルがまずイワンに向かって言葉を投げかけている-
「ー前略ーとにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか。ただ、まじめにだぞ! 俺は今まじめにやりたいんだ」
「ありませんよ、神はありません」
「アリョーシャ、神はあるか?」
「神はあります」
「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんのすこしでもいいんだが?」
「不死もありません」
「全然か?」
「全然」
「つまり、まったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな? とにかく何もないってことはあるまい!」
「まったくの無ですよ」
「アリョーシャ、不死はあるのか?」
「あります」
「神も不死もか?」
「神も不死もです。神のうちに不死もまた存在するのです」
「ふむ。どうも、イワンのほうが正しそうだな。まったく考えただけでもやりきれなくなるよ。どれだけ多くの信仰を人間が捧げ、どれだけ多くの力をむなしくこんな空想に費やしてきたことだろう。しかもそれが何千年もの間だからな! いったい誰が人間をこれ程愚弄しているんだろう?」

 キリスト教においては「神」が即「倫理」である。このことは『ジェイン・エア』のあるエピソードで端的に語り得るだろう。ジェインにきた手紙をその叔母は死ぬ寸前までジェインに告げなかった。何故ならそれは叔母が憎しみを向けるジェインに遺産が手に入るという「ジェインにとっての朗報」だったからである。
 しかしその叔母も手紙の秘密を棺桶に持っていくことはしなかった。叔母は死ぬ間際になってジェインに手紙を渡す。しかしそれはジェインを思ってのことではない。叔母は「神様が天国へ連れていってくれぬ」ことを恐れての行為だとジェインに言いながら死んでいく。

 このエピソードが端的に語るのは、さして善人とも思えぬ叔母のなかに「神の眼」が存在したということである。ジェインには隠しおおせても、神には隠しきれない。それが叔母に行動を取らせた論理の全てである。言わばそれは「強制力としての神」である。

 ニーチェが「神は死んだ」と言う時、それは人々の心の中に「強制力」の不在を言ったのである。ニーチェは言う「われわれはみんな神の殺害者なのだ」と。何が一体、神を殺したのか?
 それはつまるところ「初めにロゴス(言葉=論理)ありき」から始まった、西洋キリスト教圏における合理的な普遍妥当性をもって真実を探求しようというその姿勢に他ならない。真実の追求の結果「神が迷妄でしかない」ことを発見したのは彼等自身なのだ。その言葉に悲痛さ(ニヒリズム)がこもるのは、本来的にはそれを信じていたかったという心情をそこに持つからである。

 世界各国の原初的な宗教的世界観は、殆どの場合「自然的世界=倫理的世界」の世界像を構築する。インドにおいては現世で犯した罪に応じて、来世に生まれ変わる動物が事細かに決められている。それは「罪」というものが「露見、不露見」を問題にしない世界である。誰に見つからずとも「世界=自身」はごまかし様がないのだ。
 西洋において培われた合理的理性は、その世界に対して「不在」といい放つ。それはイワンが「ありません」という言葉そのものである。だがそれは現代の我々においても「不在」と言うしかないような問いなのだ(一部の信仰者を除いて)。

 それにおいてニーチェやイワンを「反倫理」と攻撃の対象にするのはまたどうかと思われる。彼等は「非合理的倫理」と「合理的真実」の二者を突きつけられたときに、涙しながら後者を選んだ者達なのだ。彼等が否定しなければならなかったのは「自明としての倫理」なのである。
 むしろ「倫理」というものに対して深く考えたのは彼等のほうかもしれない。イワンはドストエフスキー作品の中でもっとも重要な箇所と言われる「大審問官」をアリョーシャに語る。それはキリスト再来の自作の詩であり、倫理においてイワンが…ドストエフスキーが見つめずにはいられなかった一つの問題である。

 再来したキリストに対して大審問官はこう語る。「…彼等が自由であり続けるかぎりいかなる科学もパンを与えることはできないだろう。だが最後には彼等が我々のの足元に自由をさしだして『いっそ奴隷にしてください、でも食べ物は与えてください』と言うだろう。ついに彼等自身が、どんな人間にとっても自由と地上のパンとは両立して考えられぬことを悟るのだ…」

 倫理を考える際に「食う」ことと「誇り」の問題があるとするなら、彼の見たのは「誇り」を捨てて「パン」を選ぶ多くの人々である。ジェインの叔母にしても「強制力」さえなければ、ただパンを考えるものなのでありそれは現代に生きる我々自身でもある。今や倫理的であることより食っていけることを優先するのは「当り前」として語られることだろう。
 ある種の精神性は常に識者のものであり、それは必然的に権威と結び付いていく歴史があった。キリスト教においては、それは教会権力であり、カラマーゾフ兄弟の父親である「恥知らず」フョードルは教会の長老達にこうくってかかる。

「…これだ、これだからな! 偽善だ、古臭い台詞だ! 台詞も古臭けりゃ、仕草も古くさいや! 古めかしい嘘に、紋切り型の最敬礼ときた! そんなおじぎは、こちとら承知してまさあね! --中略--神父さん、わたしゃ嘘が嫌いでね、真実が欲しいんですよ! --中略--だめですよ尊いお坊さん、修道院なんぞにひっこもって据膳をいただきながら、天国でのご褒美を期待していたりせずに、この人生で徳をつんで社会に益をもたらすことですな、そのほうがずっと難しいんだから」

 これはドストエフスキーが、当時の倫理観の形骸化した教会を批判したものと思われるがフョードルの抱えている「反権威的感情」は見逃せないものがある。フョードルの場合は倫理的な反発だが「パンをとる者」には権威は権威(強制力)でしかない。

 マルキ・ド・サドは『美徳の不幸』の前口上でこのように書いている。「…もしも社会的慣習から出発した我々が、教えられたとおりにこれ(美徳)に対する尊敬の念をけっして捨てなかったがために、かえって他人の非道によってろくでもない目にばかりあいつづけ、一方悪い奴はうまいことばかりしている、というような不幸なことが起こったならばこうした悲しむべき事態に直面してもなお超然としていられるほど確固たる勇気を持ち合わせない人は、すなわち必ずや、流れに棹をさすよりもこれに身をまかすほうがましだと考え、美徳は誰が何と言おうとも、悪徳に対して抗すべき十分な力を持たないときは貧乏くじでしかないと言明し、そうしてまた完全に腐敗しきった世間においては、いちばん安全な道はみなと同じように行動することだと言明しはしないか? 」

 サド本人が悪の推進者かどうかは全くの別問題として、この言葉は重要な意味を持つ。最初に記してあるように倫理というものが、「社会的慣習」というひとつの強制力(しかも力なき要請)でしかない場合、倫理は一つの行動の自由に対する「足枷」でしかない。倫理を持つことがパンを失うことに直結する世界がそこにある。

 倫理を選ぶことが「倫理の奴隷」であり、パンの選択こそが「自由」な論理がある。かたや「パンの奴隷」にならぬため倫理を選ぶ「自由」がある。現代では「いい人」でいることを「重荷」だとするある社会的雰囲気や「倫理的になりきれない」ことをして「人間らしい弱さ」と評する向きもある。そう「欲望」や「感情」が、「本音」として尊ばれる世界。
 そこにあるのは「倫理」と「合理的エゴイズム」の葛藤や敵対ではなく、むしろ「合理的倫理」と「非合理的エゴイズム」の戦いと言ってもいい。現代の課題は「合理性」を即「エゴイズム」と結び付ける、まさしく「非合理的な」信仰を取り除くことにあるのではないかと考えるのである。

     *     *     *

 これはまた何とも若い、という感じだが、案外、今もこういう事を考えて生きてる気がする。僕は「自然に倫理が存在する」というような宗教的世界観も指示しないかわりに、「合理性とは功利性だ」という論理も片方で否定するのだ。
 そこでは合理性を追求すると倫理にいたる、というような道を想定しているのだと思う。と考えると、やはり今、武術において語ることとそうは違わない気がする。ただ、この性急な感じの倫理への欲求が、少し羨ましく思ったりもした。

 少しこういう感覚を取り戻して、世界全体を相手に戦ってた頃の気持ちを思い出すのもいいかもしれない。
PR

コメント

プロフィール

HN:
No Name Ninja
性別:
非公開

カテゴリー

P R