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武術散策  空手について  その一



 別段、僕が書くことでもないような気もするのだが、改めて空手の系譜などを書いておこうと思う。まず大きな区分として、空手は「首里手(しゅりて)」と「那覇手(なはて)」に分かれる。もう一つあった「泊手(とまりて)」は現在ほとんど残っていないので、これは除外する。
 これは発達した場所からくる呼称の違いで、首里手の方は首里城を警護する武士たちが学んだもの、那覇手は那覇港付近の村民が伝承していたものとされる。ちなみに泊手も、泊港付近で発達したということである。しかし実質はほとんど首里手と変わらなかったという。

 そもそも沖縄には、琉球の内部に存在した「手(ティー)」という武術が存在した。ここに佐久川 寛賀という人物が中国にわたり、拳法を習って帰ってくる。そこでこの「唐手(トウディー)」と呼ばれた佐久川の武術が在来の「手」と融合し、変化したものが琉球の「唐手」であるとされる。
 ちなみに「佐久川の棍」という棒術の型が現在でも残っており、この佐久川寛賀の作とされている(異説もある)。本当ならば、最古の空手の型ということになる。ただし首里手の最高型と言われる「公相君(クーシャンクー)」が、公相君の残したものなら、こちらの方が古いことになる。

 ちなみに「公相君」というのは中国人拳法家のことで、1756年に琉球を訪れ、「組合術」なる武術を披露したと記録にある。この「組合術」を空手の源流としたり、公相君を空手の源流とする説もあるが、どれも決定打はない。
 佐久川寛賀が中国に渡ったとされているのが1806年というから、公相君が始祖なら、大分歴史は遡ることになる。また「公相君」とは人の名前ではなく、役職名だったという話もある。しかし何にしろ空手の源流は幕末期頃なので、剣術や拳法に比べれば大分新しい武術という見方もできる。

 この佐久川寛賀の弟子であり、首里手を大きく発達させたのが松村宗棍(まつむらそうこん)である。松村宗棍は「手」にも優れていたが、一方で薩摩へ行き示現流を習得してきた剣の達人だったと言われている。首里手の型には剣の理合、剣術の動きがあると言われているが、それはこの松村宗棍以来の本質だと思われる。
 このためか首里手は基本的に、示現流という剣術に対抗するための武術という理解がある。首里手はそのために遠間から一気に間合いを詰めるような、速さを重視した性格のものと言われる。それに対して那覇手は、近距離でダメージを与えることを重視するために呼吸法が発達していると言われている。

 ちなみに空手は薩摩藩が二度にわたって禁武政策をとり、武器の形態が禁じられていたために発達したといわれている。しかし武器に関して携帯は禁じても所有は許されるなど、それほど厳しい政策ではなかったとする説もあり微妙である。
 しかし空手の武器術の多くは、特定の武器に特化したものではなく、むしろ日常道具をそのまま使えるような技が多い。また伝統的に、練習は師匠と弟子が一対一で、夜中、家の中庭で教えていたというから、おおっぴらに教伝できる環境じゃなかった事はうかがい知れる。それを加味すれば従来通りに、琉球民が薩摩藩に隠れて技を磨いていたという理解で間違いないと思われる。

 松村宗棍の弟子には、高名な大家が多い。まず挙げるのは、安里安恒、糸洲安恒の二人である。糸洲安恒が頑強な身体で力強い突きを出すタイプだったのに対し、安里安恒は身が軽く、素早い技の持ち主だったと言われている。
 この安里安恒の弟子が船越(不名腰)義珍で、本土に空手を紹介し広めた人物である。この義珍の系譜が現在の松涛館で、いわゆる「伝統派」ということになる。この不名腰義珍が、本土で「唐手」を紹介すときに、『空手』という言葉を使った。それが現在にいたっている。

 もう一方の糸洲安恒は、最初、松村宗棍に気に入られず、一端弟子を止めてその後再師事したという。また糸洲安恒は那覇手や泊手も学習する研究家でもあった。この糸州が作ったのが現在の普及型である「平安(ピンアン)」である。
 ピンアンは初段から五段まであるが、糸洲安恒が最初に初段に据えたのは、現在の二段だという。またこの糸洲が沖縄の学校体育のなかに空手をとり入れた。

 松村宗棍に師事して、もっとも勇名を上げたのが本部朝基である。本部朝基は琉球の王家である本部家の三男であり、その身軽さから「本部のサール」とあだ名された。しかしどちらかと言えば残されてる写真の朝基はがっしりとした筋肉漢なので、あまり身が軽いとはイメージできない。この本部朝基の流れは「本部流」となっている。
 この朝基は野試合である「掛け試し」をしたがるので、大変、乱暴者という話であったが、その強さには定評があった。本土で黒人ボクサーと試合をし、一撃で相手をノシたなどの逸話が残されている。しかしこの朝基が習おうとして、どうしても習えなかった武術がある。それが琉球王家に一子相伝で伝えられていた『本部御殿手(もとぶうどんで)』である。

 この「御殿手」は、理合も技術も空手とは全く異なる武術であり、王の武術である。膝を曲げずに歩き、歩行のスピードを変えず、それでいて一体多数の絶対状況を優雅に切り抜けるための武術である。この継承者は朝基の兄、本部朝勇だったため、朝基には習えなかった(性格の問題もあったとされる)。
 この「御殿手」は王家外の人物である上原清吉先生が引き継ぎ、上原先生は朝勇の子息が成長するのを待って、相伝するつもりだった。しかし御子息が戦死してしまったため、時が過ぎて門外不出だった秘伝の武術を公開することにしたのだという。現在は本部流の宗家である本部朝正氏が引き継いだようである。

 上原先生は先ごろお亡くなりになったが、著作では本部家に御殿手が返せてないのを気にされていた。その心残りがなくなったのだろうと思われる。また空手からは逸れるが、御殿手は実に高い理念を持つ武術である。上原先生が、本部朝勇からいつも聞かされていたという言葉を幾つかあげる。

『自分から敵を作ることはするな。一つ勝ったら一つは負け、右で勝ったら左で負けることが大切である』

『武術の修行は家庭があってこそである。家族に危害を加える者があった時には、家族を守るために敢然と手(武術)を行使せよ』

『やむなく手(武術)を用いるときは、墓穴が二つ(自分と相手)あることを覚悟せよ』

 最後にもう一つ、

『武というものは学んでも一生使わないことが最上である』

 ここには最も精神性の高い、際立った武術が存在している。
  
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