変わることが、諸行無常
本当、昔から、仏教って言うのは、いつの時代にでも通用するようなことを言っている。
さて、今日は、本当に、ありがたい話を聞いたから、ここに書き留めておきたいと思う。
禅のお坊さんが教えてくれたこと
だいたい気になる人っていうのは、なぜか、東大出の人が多い。
一番最初に出会った東大生は、兄と同い年で、小中まで同じ学校に通った近所の人だった。
気になって、小学生の時の卒業文集を兄のアルバムを借りて、読んだとき、他のどんな人の言葉より、全然違うものを感じた。
出だしも思い出せないけど、内容は、記憶することが得意みたいなことが書かれていた。
それで、人生について、より深く知ることになっていくと、兄の周りにはどうやらものすごくすごい人たちが集まっていることに気付く。
類は友を呼ぶと言うが、まさにその通りなのだろう。
清き川には清き水が流れるように、そういう人たちの周りには、そういう人が集まるようになっているのだろう。
それで、まあ、社会に出て、色んな人に会い、知識を深め、理性を学び、冷静さをほんの少しずつ身に着けていくと、見えてくるものがある。
それは、知りたいって言う気持ち。
小学生の頃や中学生の頃、高校生の頃には、やらされていたと思い込んでいたが、実際は違う。
何が言いたいのか。大人になって、どうやって生きていけば良いのか分からなくなった時、とりあえず、大人たちのマネをしながら、今日までを繋いで来れた。
影響のある人の声や全く影響のない人の声など、本当にかぎ分けて生きているような気がする。
事実より、誰が言ったのかが重要なんだよな。
同じことなのに、好きな人が言った言葉とそうでない人が言った言葉では、受け取り方が違うように、やっぱり、誰が言ったのかが、問題になってくる。
社会に出て、おかしいんじゃね?それって。だって、同じことだぜ?って思っていたけど、自身に置き換えて考えてみるとよく分かる。
親に勉強しなさいって言われるのと、友達に勉強やれよ!って言われるの、内容が同じ勉強をすることであっても、やっぱり、違うんだよ。
それが分かってきた。
それで、ようやく、最初言った禅僧の話に強引に戻していくんだけど、
彼が教えてくれたのは、一日しかない今日、一度しかない朝、一度しかない昼、一度しかない夜、たった一度しかないのに、人はどうでも良いことに悩む。本当の自分を見つけずに。
禅っていうのは、自分を見つけること。自分を探求すること。そのためにある。
だから、どうでも良いことに悩むんじゃなくて、覚めろって言うんです。夢から覚めろって。
ああだ、こうだと言うが、本当に大切なことに気付かずに一生をあっという間に終えてしまう。
そういう話を聞いたら、ちっちゃいなあって思った。
今日、ちょっとばかし、しんどさが残ってて、やりたくないなあって思って、でも、考えてみたら、こおんなこといくらでも起こるんだから、いちいちしんどいとか苦しいとか考えていてもしょうがないなって思った。
誰にだって、熱が出たことくらいあるだろう。風邪をひいたことやお腹が痛くなって惨めな思いをしたこと、悲しい思いをしたこと、そんなこといちいち考えていられないだろう。
だって、当たり前にあることだから。
どうでも良いよな。