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作品を読む  藤子先生の問題作



 藤子・F・不二雄先生の遺作となった『大長編ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』は、不思議な作品である。ある意味ではそれは奇妙な…いや、最期に残された問題作だといっていい。

 『大長編ドラえもん』のシリーズは、明らかにそれまでの「停滞空間」化していた『ドラえもん』の世界に、一つの「動き」と言えるものを持ち込んでいる。特に『のび太と夢幻三剣士』では、一度生き返りが約束されているとはいえ、のび太、そしてしずかちゃんまでもが、「実際に」死んでいるのだ。
 いわば大長編ドラえもんのシリーズは自己言及的に、そのタブーを破っていく過程であったとすら言える。そしてその最終作品となった『ねじ巻き都市』では、ドラえもんはそれまで踏み込むことのなかった「宇宙観」とでもいうべきものに足を踏み入れたのである。

 ここでいう「宇宙観」とは、もっとも適切で簡単な例えを出せば、それは手塚治虫の描いた『火の鳥』のような「宇宙観」である。「火の鳥」とは物理学的な世界像に加えて、「生命の起源」「永遠の存在」「運命を見届ける者」などの多元的意味を担う火の鳥の存在によって、その「生命現象」という根源的な謎に対して意味づけを行っている。
 この「火の鳥」にあたるような巨大な存在は、「スコシふしぎ」を描く藤子不二雄の世界には、これまでは登場してこなかった。しかし『ねじ巻き都市』では、この「火の鳥」にも値する巨大は存在が登場するのである。それは自らを「種をまく者」と名乗っている。

 「種をまく者」は不定形存在であり、最初はのび太たちの前に脅威として現れる。しかしドラえもんでも救えなかった危機にのび太が陥ったとき、それは自らの事をのび太に語った。
 「種をまく者」は自らの行った「実験」について語る。それは地球と火星に、「生命」の「種」をまいた実験だった。しかし火星は思わぬ惑星衝突によって失敗。続く地球は「人間」という生物が、自らの星を破壊しかねない方向に進化していると語る。

 物語はしかし、この「種をまく者」をめぐって進行しているのではない。話はのび太が「ねじ巻き」によって作り出したヌイグルミ生命と、その都市に入り込んできた強盗犯のもたらす混乱によって進んでいるのだ。
 「種をまく者」はのび太に、「地球は君たち次第だ」と語る。そして「種をまく者」は、「ぼくはもう次の星へ種をまきにいかなくちゃ」という。それを聞いてのび太は、「待って、じゃあ悪人はどうするの?」と尋ねる。「君たちの力で解決するんだ。それは試練だよ」と言って、「種をまく者」は去ってしまう。

 「種をまく者」はそれ以降、物語には現れない。これほどの重要な存在だが、それはのび太との一瞬の接触であとは姿を消してしまうのだ。「造物主」といえる存在を出しておきながら、それ以上その存在への追求はなく、事態を解決することにのみ物語は進行する。このある種の「突き放し方」は、何か奇妙な「違和感」をもたらさずにはおかない。
 
 しかしこれ以外にも、ある違和感をもたらす描写がある。それはねじ巻きによって作られた生命体に関する描写においてだ。ヌイグルミに生命を与えたのはのび太とドラえもんだが、その生命は意図に反して高度な知性体を生んでしまう。
 その原因となった落雷も「種をまく者」の御業であったことが後に語られるが、この生命体は「造物主」である、のび太たちの意図を超えて存在している。物語はそれに怪訝さを感じるのび太たちを、意図して描写している。

 この高度な知性は、やがてさらに専門的な知性を持つ存在を生み出す形にまで展開する。そしてその生命体たちは、自らの都市を汚すジャイアンとスネ夫を、あろうことか裁判にかけるのだ。
 それはスネ夫のガソリン車が二酸化炭素を排出し、ジャイアンの工事車両が森林伐採をして環境を破壊してると訴えるのだ。そして圧倒的に多数の意見によって、スネ夫とジャイアンは引き下がることになる。いわば自らの被造物によって、自らが否定されたのを受け入れたわけである。

 この「造物主」と「被造物」の切り離された関係は、そのまま「種をまく者」と、のび太たちを含めた全ての地球生命にあてはまる。いわばここではのび太たちが、「造物主」の運命を比喩的になぞっていることになるのだ。
 つまり「自らが創ったものでも、一度生まれたものは自らの意志と自由を持つ」。それがこの「切り離された関係」に貫かれる、創られたものと創ったものの関係だ。しかしこれ自体もまた、一つの比喩なのではないだろうか?

 つまりそれは『ドラえもん』という作品、あるいはのび太やドラえもんという各キャラクターが、「作者」という造物主の手を離れて独り歩きし成長するということのアナロジーではないのか。
 そして時にはそのキャラクターたちが、作者までも否定することがありうるということだ。それはもはや自律的な主体性を持った、文字通りの一つの「生命」である。

 さらに再帰的に捉え返せば、そのような創造主からの切り離された関係に我々もあるのかもしれない。人の争いや欲望は、そういう「自律性」を持っているがゆえに起きる問題と捉えうるということだ。前科百犯という凶悪犯の鬼五郎は、その「自由ゆえの悪」の象徴的な表現である。
 この鬼五郎が前科百犯という設定の割りに、明らかに今までのび太たちが戦ってきた敵に比べれば、とるにたらない「小物」であることは一目瞭然である。この小物がコピーによって大勢と化したのが、最終的な物語の敵なのだ。

 しかし何故、この『ねじ巻き都市』は、造物主という最高に深遠な主題に踏み込んでいながら、このとるに足らない悪人を「問題」として据えたのか? それはあまりに不釣合いなバランスではないか? しかしこの「とるにたらない悪」を選んだことに、藤子先生の最期のメッセージがあると見なければならない。
 もっとも警戒すべきは身近に存在する自己中心性、そしてほんのとるに足らない欲望で動く「悪意」である。しかしこの小さな悪が増殖することで、のび太たちは大変に追い詰められるのだ。のび太が最期に向かい合ったのは、本当に小さな「大人」のもつ悪であった。

 しかしどれだけ人が悪に染まったとしても、その根底にはやはり「善」が潜んでいるのではないだろうか? 藤子先生は小さな希望をそこに残す。
 この鬼五郎が多くのコピーを生み出すとき、一人だけ気が弱くて、比較的善人の「ホクロ」が生まれる。彼は決して善人とは言えないが、鬼五郎ほどの根っからの悪人ではない。「ホクロ」は鬼五郎に残っていた、ほんの僅かな良心の姿といえる。

 「切り離された被造物」を認め、愛する視線がもてることが、悪にしか見えない相手のなかにも「善」のかけらが存在することを忘れないでいる心と一つになる。それは我々も含めた被造物、「生命」の歩みを信じることだ。
 藤子先生の最期に見ようとしていた世界、それに少しでも近付こうと思うのなら…僕たちは再び『ドラえもん』を読まなければいけない。
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