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作品を読む  『ヒーローと正義』を読む



 実は現代の仮面ライダーが変身しないと強くないのには訳がある、ということを最近知った。白倉伸一郎氏の書いた『ヒーローと正義』を読んで、その裏事情を知った次第である。

 白倉氏は平成ライダーの『アギト』以降の作品を、主に手がけてきたプロデューサーである。その番組作りには製作側の表現主題以上に、その反応による制約が多く伴うのだという事を改めて知った。
 白倉氏はこのなかで「踏まれた痛み原則」というものに触れている。その例として出されているのが、「車椅子の少女」という登場人物の霊だ。

 この車椅子の彼女を悪い子に描くと、「車椅子の人間を悪く描いている」と傷つく人がいる。どうでもいい存在なら、「登場人物を無意味に車椅子に乗せている」と批判される。だから彼女はいい子でなければならず、かつ重要な役回りでなければならない。
 また物語のなかで彼女の足が治ったりしてはならない。それは足が治らない人に、「治らなくてはいけない」というプレッシャーを与えるからだ。逆に治らないのもいけない。治りたがっている人に、絶望を与えるからである。

 こうして「車椅子の少女」は、出てきた途端にキャラクターと物語が決定されることになる。つまり「足の状態と関係なく、明るく生きている少女」ということになる。

 「踏まれた痛み」は「踏まれた者しか判らない」という理屈が、非常な強制力となって働いてる現実がここにある。そして結果的には、最初から足を踏まないように、表現に規制をかけていくという事態を起こしている。
 そもそも「ライダーキック」という必殺技ですら、脚力の重要性を強調するため、「足の不自由な子供たち」を傷つける可能性があるというのだ。現状ではそれに対して、「彼らは『変身』してるから」強いのであって、肉体的にそれを誇っているのではない、という理屈で「お目こぼし」をもらっている状態だという。

 そんなわけで昨今のライダーは、変身しないと弱いのだ。しかし努力して身につけた力に「差異」があるのは当然であり、その「差異」を認めないのは悪質な平等主義ではないのか?
 ちょうど現在パラリンピックがやってるが、あの人たちは全て努力してきた結果、あの運動能力を有する人たちである。正直に言えば、全盲の柔道家たちと試合をして、僕が勝てるとは到底思えない。あらゆる差異を排斥するのなら、その彼らの努力もまた否定されてしまうのではないだろうか。

 白倉氏はこのような「人の嫌がることをするな」という命令が、快感原則に基づく感覚的な原理に属しており、自律的な人間の主体性を見据えたうえでの倫理原則とは言えないことに警鐘を鳴らしている。簡単に言えば、このような命令はうわべの形しか判断せず、その真の内容にまで踏み込まない。
 その意味で、このような感覚命法の欠陥は、行為者の自律性を否定するところにあると氏は書いている。それは行為主体の気持ちや自覚を問題にしないばかりか、積極的に思考停止を是とする。そのような思考停止を前提に、他人を「踏まない」ために「歩く」ことに多くの規制がかけられているのが現状である。

 これは僕の言葉で言えば、「同質化」の進行と言える。白倉氏はそれを「都市社会の住人」の秩序という言い方をしており、それはヒーローたちにも反映していったと氏は指摘する。例えば『ウルトラマンコスモス』において、怪獣を「退治」するのではなく、保護して「動物園」に入れることにもそれが見られる。
 この「動物園」という装置は都市の秩序を守るだけでなく、「安全な世界」の境界線でもある。これは転化すれば、私達/あいつらという二項対立の境界線でもあるということを意味する。その意味でアウシュビツや強制収容所は、一種の「動物園」であったと氏は指摘する。
 獣はもはや管理化におかれなければ、生きる資格すら持たされない。最初は優しく保護しようとするウルトラマンも、その保護=管理に従わない怪獣には容赦がない。モードがルナからコロナに代わり、必殺光線で一撃である。

 このような「動物園」的環境に置かれてるのが、ほかならぬ子供であるという。クウガのなかでは家出をした少年のために、主人公が行動する話がある。もはや「少年の家出」は都市秩序を乱す大事態であり、それにはヒーローの出動すら要請されるのだ。
 と、同時に少年型の怪人=従わない子供に対して、クウガは義憤以上の怒りと残酷さで持ってその怪人を殺傷している。これは「最近の子供は判らない。だがこの秩序を脅かすようなものは、少年であろうと厳罰で対処すべきだ」という感情が見て取れるという。

 白倉氏はそこまで書いてはいないが、この『クウガ』という作品には脚本の荒川稔久の影響が大きく、この脚本家の書くモラリティが、他ならぬ「都市の母親」たちを惹きつけたのだ。
 この荒川脚本の根本的な「同質化的モラリティ」には以前にも触れたことがある。それは『獣拳戦隊ゲキレンジャー』のときだ。このとき、「ダンスをみんなに合わせることが大事だ」という話を書いてたのが、この脚本家だった。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=739201394&owner_id=16012523

 白倉氏はこのような傾向を、次のようにまとめている。

①境界を侵犯し世界観を混乱させることは、わたしたちに不快感をもたらす。
②欲望を軸として回転する経済社会では、不快感に基づくテーゼが道徳律として社会的ルール化していく。
 
 そしてこの二つから、次の三つ目の項が現れる。
③世界観を混乱させ不快にさせるものが、そうと意識されることなく、社会的な「悪」として規定されていく。

 ということである。この本のなかにあったエピソードで驚いたのは、『アギト』の主役がバイクに乗ってるとき、「記憶喪失なのに免許が取れるはずがない。ヒーローが無免許でいいのか」という苦情が『たくさん』届いたという話である。
 悪を倒すことより、都市社会のルールの方が重要な人たちがいる。ちなみにウルトラマン・コスモスが郊外の森林公園でウルトラマンになったときは本当に驚いた。あれは都市社会の守護神であり、一種の都市伝説みたいなものである。

 ちなみにクウガは幼稚園児の喧嘩の仲裁をしていた。その片手間に怪人を倒していたのである。しかし誰がなんと言おうと、ぼくは努力もせずに力を手にするような者をヒーローとは認めないし、またヒーローとは本当の世界平和のために活動する存在だと思っている。同質化の秩序を守るヒーローなど、僕にとっては敵でしかない。
 
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